木野川紙業(株)創業の地と歴史のあゆみ

<歴史編>
我社の創業の地の歴史からお話しましょう。
まず西国街道(旧山陽道)から紐解いていくことにします。
そもそも山陽道とは千年以上昔の律令(りつりょう)国家に造られた唯一の「大路」(だいじ)でした。
山陽道は畿内(きない)の都と大宰府(九州)を結んでいたのです。中世には地方分権の傾向が強く街道の管理もまちまちでした。
 
※畿内とは京都付近の山城、大和、河内、和泉と摂津の五カ国のこと。

しかし、近世(江戸時代)に入ると山陽道は再び政治の中心地江戸と対外交流の窓口である長崎を結ぶ主要な道路となり、西国街道とも呼ばれるようになりました。(大竹市広報誌より抜粋)

芸州(広島県)と長州(山口県)との県境には、日本でも珍しいふたつの名を持つ川が流れています。現在こそひとつの名前(小瀬川)となりましたが、芸州(広島県側)は木野川(このがわ)、長州(山口県側)は小瀬川(おぜがわ)と呼んでおり、我社創業の地が芸州にあったことから、この川の名を由来とし「木野川紙業」(このがわしぎょう)としました。

この町には非常に悲しい物語があるのです。
江戸時代末期、「尊皇攘夷」の筆頭は長州藩でしたが、幕府の画策によって「朝敵(天皇の敵)」と立場が逆転。1864年(元治元年)朝廷から「長州征伐」の勅命を受けたため幕府によって、諸藩に長州への出兵が命じられました。この時は、長州藩の謝罪降伏(数人が切腹させられる)によって長州征伐は未遂に終わりました。

しかし、その後、長州藩改革の旗頭高杉晋作が兵を挙げたことにより、幕府は再度長州征伐を敢行。この時、芸州は中立政策をとったのですが、それを立案したのは、私の先祖である、浅野藩筆頭家老野村帯刀(たてわき)であります。(徳川家、安藤帯刀。薩摩藩島津家・小松帯刀と並ぶ、三大帯刀と云われたその内のひとりです)

隣接した芸州が慶応元年中立政策をとったため、徳川重徳が征長先鋒総督となり、慶応2年6月彦根・高田両藩を先鋒とした、第二次長州征伐が始まったのです。
 
俗に「四境の役(えき) 芸州大竹口の戦い」です。(四境の役とは周防大島口、石州口、小倉口そして芸州大竹口なのです)この四境の戦いは、木野川(小瀬川)を挟んで対戦し、大竹は数軒を残すのみの悲惨極まる大惨事だった、と悲しい歴史が今もって言い伝えられています。
※筆頭家老野村帯刀(芸州、浅野家幕末の藩主、浅野長勲とは従兄)は祖母の祖父にあたり、父平田三有は野村帯刀の娘婿で浅野藩の武士であったが、帯刀の意向により藩費で江戸で医学の勉強をし御典医となり廃藩の際、私財を出し武士を救済するために銀行を設立する。

それでは木野川紙業(株)創業のあゆみに入りましょう。
清流木野川(現小瀬川)は水に恵まれ、元和年間(1619)の時代より手漉き和紙の生産が盛んでした。浅野藩の奨励もあり江戸時代から明治時代にかけては約1,000軒の紙漉きがあり問屋も10軒前後あったと聞きおよんでいます。

 昭和16年我が国が風雲急を告げて来た頃(太平洋戦争勃発)商工省は和紙の配給機構の整備に着手。地元の和紙問屋等の志を同じくする人が集い、昭和16年12月2日資本金五萬円、株主16名で我社は創業致しました。
 
昭和20年8月15日敗戦。焼土と化した各地に於いて物資欠乏の状態が続き紙業界も統制経済から自由経済への転換の第一歩を踏み出し、昭和21年11月11日には商権が復古、次いで昭和22年2月、事実上統制経済が終わりを告げたことにより我社は営業を再開するに至りました。

創業の地は大竹市ですが、平成13年7月広島支店へ本社を統合し広島本社と改め、販路は東京、関西以西中国5県及び四国全県、九州の一部へ拡げております。


平成23年12月創業70周年記念の事業として植樹と記念碑を建立する。
会長の私財により、地元の大竹小学校と大竹中学校に「たぶち文庫」を設立寄贈させて頂きました。

追記
平成21年大竹駅前のロータリーに四境の役芸州(大竹)口の戦いのすばらしい石碑が建立されました。
弊社もお手伝いさせて頂きました。四境の役のことが詳しく書かれております。お近くにお出かけの節には、是非見学して下さい。


山口県玖珂郡和木町安禅寺に地元有志の方たちによって手厚く葬られた2つの墓地があります。
四境の役で木野川の半ばにて、長州軍の狙撃によって命を落とした幕府側彦根軍の使番、竹原
七郎平、曽根佐十郎のものです。

代表取締役会長    田渕 清文